戦記 「三四三工場始末記」 大西正美
『星窓』第3号掲載作品


「三四三(さんよんさん)工場始末記」    大西 正美 (大阪府)


 岡山県C町。この辺りは日本でも有数の穀倉地帯である。第三四三工場(三四三工場)は、
C町の外れ、国鉄(現JR)宇野線沿いに広大な工場用地を占めていた。
 スレート屋根の工場建屋が幾棟も並び立ち、工場に特有の煤けた地肌は、周囲の田園風景
には場違いの印象を与えている。
 本来この会社は、S繊維工業といって、紡績業が中心であったものを、戦局の悪化して行く
中で、航空機工場への転換が推進されていた。
「三四三工場」とは、諜報上の理由から当局が付けた符牒である。職場にあってはもとより、私
信にもこの符牒を使うことが強制された。
 学徒勤労令によって、私が三四三工場に配属されたのは、敗勢色濃い昭和二十年四月のこ
とだ。満年齢で十五歳に達していなかった。
 飛行機工場と聞かされていたので、胸おどらせて工場の門をくぐったが、私たちが配属され
たのは、染色工場だった。細々だが工場の片隅では、海軍士官の純白の制服を国防色(ダー
ク・グリーン)に染めていたのだ。私の仕事はといえば、来る日も来る日も背丈の二倍はあろう
という太い竿竹で、染色槽の中をこね廻すことだった。被服の染めむらをなくすためにである。
 穀倉地帯の三四三工場は、大都市圏の工場に比べて、食糧事情には幾分か恵まれていた
だろう。それでも米粒が数えられる程度に混入された麦飯である。それも腹八分はおろか、腹
六分目がやっとだった。唯一のたのしみは、昼食時に麦飯の上にポンと載っている、ドングリ
の粉で作った蒸まんじゅうだ。もちろん塩味である。
 腹が減っては戦(いくさ)ができぬ、のたとえ。六月二十八日未明、岡山市がB の空爆で被
災後、次の目標は三四三工場らしいとささやかれだした。白昼堂々と偵察行動をとる米軍艦載
機が脅威でない、といえばウソになる。けれども間断なくおそってくる空腹感は、それにもまして
耐え難いことだった。
 十四歳の少年に、難しい理屈は判らなかった。が、国家の命運は当然気になった。だが、差
し当っての最大関心事は、いかに飢えと闘うかにあった。
 ――八月十五日――。私たちが敗戦を知ったのは、午後三時ごろのことである。
 正午に流された天皇の放送が、ほとんど聴きとれなかったのだ。パニックを気遣って見廻り
にきた会社幹部の「いまさら仕事でもないだろう。日本は敗けたんだぞォ!」。その怒声で、一
瞬すべての動きが停止した。重苦しい静寂がその場の何もかもを押し包んだ。どの顔も自己
を見失って立ち尽くした。
 ややあって、女学生の間に鳴咽がもれた。一人、また一人……。それは名伏し難い波動とな
って、辺りかまわず伝播した。
 ぽっかりと穿(うが)たれた心の空洞。
 そんな虚脱感が去って、ふと脳裡をかすめたのは、明日への恐怖だった。
「男はみんな去勢されて、アフリカに連れて行かれる」。「若い女性は、占領軍兵士の慰み者に
される」。
 うわさがうわさを呼んで、工場内はしばし騒然とした空気に包まれた。が、同じ人間同士、そ
んな馬鹿なことはない、という会社側の説得で鎮静した。
 そして――人々の心に、持って行き場のない憤りだけが残された。
 航空機現場では、あと一息のところで完成を見なかった大型輸送機が、放置されたままにな
っていた。それらにでっかいハンマーが、ところ構わず打ち下ろされた。翼といわず胴体をとわ
ず。
 あとには原形を留めぬまでに打ちひしがれた機体が三つ四つ、無惨に転がっていた。
 あたかもそれは“さんよんさん工場”の終熄と、国家の終焉を象徴するかのように……。
 第三四三工場は、昭和二十年八月三十一日をもって閉鎖された。


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